1818年ロシア、モスクワで誕生
創設者:ピョートル・アルセニエヴィチ・スミノフが
モスクワで製造するが、撤退をすることにある。
※(正しくはスミノフではなくスミルノフ)
理由は6年前に遡る。
1812年ナポレオンの遠征での戦闘による爪痕が残されていた為、
モスクワ川のほとりで製造開始。
40年程時を経て、1864年に白樺の炭で濾過をした無味無臭の上質なウォッカを造る。
これが現在のスミノフウォッカ。
公式Webサイトでも公表されている。
SMIRNOFF
その後
皇帝に品質を認められ鷲の紋章をラベルに記載することが許されたり、
※ウイスキーで言うロイヤルワラント(王室御用達の証)です。
世界各地で開催される国際見本市などに出品し、名を広めていった。
売れ行きは好調だったが、時代が変化する。
ロシア革命
1917年により帝政が終わる。
この時の当主は、
4代目:ウラジーミル・アルセニエヴィチ・スミノフ
ロシアを出てトルコへ亡命。
次にウクライナへ。
さらにフランスへ。
最終的にはギルビー社で働くことに。
フランスに輸入が可能となり、
ブランド権を管理する為フランス、パリに会社を設立。
社名は
創業者の名前をフランス読みにした
「ピエール・スミルノフ社」
アメリカに進出
1933年、
ロシア時代の友人が噂を聞きつけウラジーミルの元へ駆けつけてきた。
名前は
ルドルフ・クヘシュ
元々農産物を納品していた。
現在はアメリカに亡命し名前を
ルドルフ・クネットに変更していた。
イギリスとフランスの間で活躍しているスミノフ社に、
ビジネスを持ちかけた。
1933年はアメリカで禁酒法が廃止された年、
これからアメリカでも商売ができるとルドルフは考えた。
そして直接販売許可をもらいに現在に至る。
昔のよしみで製造、販売の許可がおりた。
アメリカに戻り早速張り切って商売する。
1934年コネチカット州でアメリカ産ウォッカが誕生。
だがアメリカではまだウォッカの認知は低く、
自身の販売スキルも無く理想と現実のギャップに苦しんだ。
そして5年後、1939年スミノフ販売権を誰かに売却することを決心。
ヒューブライン社に継がれる
ドイツ南部ババリア地方出身
アンドレアス・ホイブライン
(アメリカ名アンドリュー・ヒューブライン)
1859年、アメリカ、コネチカット州ハートフォードで小さな食堂をオープン。
後に、レストラン、酒販売、輸入、酒ブレンドで成功。
3年後には瓶詰め携帯カクテル「ヒューブライン・クラブ・カクテル」を販売。
ヒューブラインの孫娘はイギリスのマーチン家に嫁いだ。
ジョン・G・マーチン
ケンブリッチ大学卒業後、
アメリカへ渡り国籍を取ってヒューブライン社へ入社。
後に社長に就任。
そして1939年スミノフの販売権を買収。
スミノフとモスコミュール
ルドルフ・クネットのウォッカに対する情熱を高く評価し、
ヒューブライン社の社員として引き続き働く道を与えた。
1941年ついニアのカクテルが誕生する。
ウォッカの売れ行きに悩んでいたマーチン社長、
ロサンゼルスあるレストラン「コックン・ブル」を経営する、
友人のジャック・モーガンに営業訪問した時のことだった。
モーガンはジンジャー・ビアの在庫処理に悩まされていた。
そこへモーガンの女友達オズライン。・シュミットが訪れる。
彼女は父親から受け継いだ銅製品工場の銅マグカップを売り捌きたかった。
スミノフウォッカ、ジンジャービア、銅マグカップ、、、。
3人が閃き、誕生したのが「モスコミュール」
そこから、ウォッカをカクテルの利用へとPRを打ち込み、
時代とマッチして絶大な人気を得るようになった。
ちなみにモスコミュールの由来は
モスコ:モスクワ
ミュール:ラバ
モスクワのラバ
モスクワはご存知の通り、スミノフウォッカ創始者の故郷であり誕生の地。
ラバは雄のロバと雌のウマの交雑種。
アメリカ西岸部開拓時代に使用されていた家畜。
ロシアから始まりアメリカへ渡って開拓。
まさに「モスコミュール」ですね。
さらに拡大するスミノフ
現在はカクテルには欠かせない存在です。
日本で流通しているスミノフは原産国が韓国・京畿道利川になっています。
活動の拠点が拡大しただけで味に変化はありません、
ちゃんとしたプレミアムウォッカなのでご安心ください。
ちなみに韓国内で流通しているのは英国産です。
ハロー効果やプラシーボ効果にご注意。
判断力が鈍ります。
まとめ
ロシアで始まり何世代にも意思が受け継がれ、
フランス、イギリス、アメリカへと拠点を広げ、
世界に名を轟かせたスミノフウォッカ。
映画にも登場、もう大スターですね。
今後の活躍注目です。
こちらも参考にどうぞ
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